2025.10.03

凱旋門賞勝ちのピーヒュレク騎手

いよいよ今週末、フランス・パリロンシャン競馬場で凱旋門賞(GⅠ)が行われる。
近年、日本馬が挑戦するのはもはや恒例となった。しかし、頂点に立った日本調教馬はいまだ一頭もいない。夢は毎年のようにヨーロッパの強豪に阻まれてきた。
2021年、記念すべき第100回の凱旋門賞で、日本の2頭を破り、頂点に立ったのもやはりヨーロッパの馬だった。勝ち馬は、ドイツからの遠征馬トルカータータッソ。そしてその手綱を託されたのが、レネ・ピーヒュレク騎手だった。
「正直、勝てる自信はありませんでした。でも馬の状態は素晴らしく、せめて賞金を手にできれば、という思いで乗っていました」
そう語った彼の言葉からは、偽りのない驚きと喜びがにじんだ。
ピーヒュレクは競馬とは無縁の家庭に生まれ、父ジェンズ氏と母アイリスさん、兄マイク氏と共にドイツ・デッサウの街で育った。初めて馬に乗ったのは13歳。サラブレッドに跨ったのはさらに3年後のことだった。
「ポニーとはまるで違うスピードでした。風を切る感覚に魅了されて、ジョッキーになりたいと思いました」
20歳で騎手デビューをすると、3戦目で初勝利。その瞬間のことを、彼は今も忘れない。
「人生で味わったことのない、初めて感じる種類の喜びでした」
その後、思わぬ縁が訪れる。14年と15年、ドイツ馬アイヴァンホウとイトウがジャパンカップに挑戦した際、調教ライダーとして来日。朝の調教に跨り、レース当日もパドックで出走馬を曳いた。
「親友で尊敬するフィリップ(ミナリク騎手)が騎乗していた馬で、彼が調教師に僕を推薦してくれたんです。日本競馬の印象は最高でした。いつか必ず日本で乗りたいと思いました」
運命の馬トルカータータッソと出会ったのは20年の春。
「デビュー前の最終追い切りで乗りました。闘争心のあるいい馬だと思いました」
しかしデビュー戦は4着に敗れ、その後しばらく声はかからなかった。
半年後、ピーヒュレクはバイエルン大賞で自身初のGⅠ制覇を飾る。その時、クビ差で2着に敗れたのが、他ならぬトルカータータッソだった。
「人気薄の馬で勝てるなんて信じられなかった。けれど、その相手がタッソだったんです」
翌シーズン、再びコンビ復活の声がかかる。
「マルセル(ヴァイス調教師)が『もう一度乗ってみないか』と言った時、迷わず首を縦に振りました。断る理由なんてありません」
復帰初戦でGⅡを勝ち、ベルリン大賞(GⅠ)では翌年に凱旋門賞を勝つアルピニスタの2着。続くバーデン大賞(GⅠ)では圧巻の4馬身差勝ち。タッグは勢いに乗り、ついに凱旋門賞へと向かった。
それは馬にとっては初めての国外遠征であり、鞍上にとっては初の凱旋門賞騎乗だった。
「それでも調教師は『この馬のことは君が一番よく分かっている』と何も指示をせず任せてくれました。でも正直、僕はナーバスになりました」
しかし道中、相手として有力視していたタルナワやハリケーンレーンがすぐ横にいるのに気づいた瞬間、心は決まった。
「僕はいい位置にいる。勝てるかもしれない」
残り100メートル。
「手応えが彼らよりいいから勝てると確信しました」
その読み通り、トルカータータッソは真っ先にゴールへ飛び込んだ。
「夢が現実になりました。信じられませんでした。その感情は1週間以上も続きました」
レース直後の、彼の行動が話題を呼んだ。
脱鞍したピーヒュレク騎手は、外したばかりの鞍をカメラに掲げた。その裏には「F・MINARIK」と書かれていた。前年に落馬で瀕死の重傷を負い、騎手を断念した親友フィリップ・ミナリク元騎手を見舞った際、譲り受けた鞍だった。
「フィリップと一緒に走っているつもりでした。勿論、彼と一緒に勝ったんです」
ミナリク騎手は23年にこの世を去った。日本のファンから深く愛され、「いつか必ず日本へ行きたい」と語っていたその願いは、もう叶わない。
昨年、ピーヒュレク騎手が短期免許で来日したのは、親友の想いを背負ってのことだったのだ。
トルカータータッソと共に頂点を極め、亡き友に勝利を捧げたレネ・ピーヒュレク騎手。その姿は、凱旋門賞が2分半ほどの単なる「レース」ではなく、人と馬、そして絆の物語であることを改めて教えてくれた。
(撮影・文=平松さとし)
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