2025.07.02
スポニチアネックス
琉球王国伝説の“暴れん坊”名馬「仲田青毛」
猛暑日には肝を冷やすような馬のちょっと怖い話を!日々、現場で取材を続ける記者がテーマを考え、自由に書く東西リレーコラム「書く書くしかじか」。今週は13年度JRA賞馬事文化賞を受賞した東京本社・梅崎晴光(62)が担当する。受賞作「消えた琉球競馬」の増補改訂版を今月末に発行予定。8月からはラジオ講座「琉球名馬列伝」(FM沖縄=ラジコで全国から聴取可能)の講師も務めるベテラン記者が奇々怪々な琉球馬の逸話を紹介する。

沖縄では霊や妖怪が現れる夕暮れ時を「アコークロー」と呼ぶ。生暖かい風がクバやアカギの木々を揺らす首里のアコークロー。首里城の北側、首里末吉町にある仲田殿地(なかたどぅんち=仲田家旧屋敷)跡の前を歩いていると、細かく刻む蹄音が耳をかすめたような気がした。空耳だとすれば、この地に残る馬の不思議な伝承のせいだろうか、それとも…。
琉球王国時代、「仲田青毛」という名馬が仲田殿地で飼われていた。死後、この地に葬られたが、どんな暴れ馬もうるさい馬も仲田青毛の墓に近づくと、借りてきた猫のようにおとなしくなったという。首里の怪談といえば、泣く子も黙る「耳切り坊主」(みみちりぼうじ=首里・大村御殿の前に立って泣く子の耳を鎌で切り落とす幽霊)が有名だが、仲田殿地のこの馬は死してなお、鳴く馬も黙る威厳を放ったという。
「那覇市史」などによると、仲田青毛は寛永年間(1624~1645年)、当時の馬産地、北谷(沖縄本島中部)の生まれ。牧場時代からカン性がきつく、首里の仲田家に引き取られても首里城の石垣を跳び越えたり、石垣の上を歩いたり…。ゴールドシップ、オルフェーヴルも顔負けの暴れん坊ぶり。運動神経だけは抜群で、その名声を聞いた薩摩藩の島津公に献上された。だが、薩摩藩の馬術指南役がなだめても暴れるだけで馬具さえ着けられない。そこで、元飼い主の仲田家の次男・仲田親雲上(ぺーちん)を鹿児島に呼び寄せたところ、元飼い主を乗せて鮮やかに四肢を弾ませた。
仲田青毛の評判はたちまち薩摩に広まったが、面目をつぶされた馬術指南役は腹の虫が治まらない。人知れず馬場に落とし穴を掘り、穴底にやりぶすまを仕込むと、仲田青毛を走らせるよう仲田親雲上に命じる。死の罠(わな)が口を開けて待っているとも知らず、細かく刻む琉球馬の脚並み(側対歩)で落とし穴に近づく仲田青毛。絶体絶命。馬術指南役の背後で死に神もほくそ笑む生命の危機が迫った。ところが、死の罠に脚を踏み入れる直前、この名馬はオジュウチョウサンのようにハイジャンプ。蹄音の微妙な変化で地面の異変を感じ取り、落とし穴を跳び越えたのだった。無事、琉球へ帰国した後も仲田青毛は死ぬまで走り続けたという。
その姿を捉えた絵図が沖縄県立博物館・美術館に所蔵されている。琉球王府の絵師・佐渡山安健が描いた「仲田青毛之図」。墨の濃淡でグラデーションされた全身は黒一色。歳月を経ても極上の琉球漆器のような光沢を放っている。「琉球王国時代の絵画の大半が行方不明になっているだけに極めて貴重な作品です」と同館の主任学芸員、平川信幸さんは語る。昭和初期まで県内に残されていた絵の大半が沖縄戦で焼失したという。「仲田青毛の絵図は佐渡山安健のご子孫が県外(名古屋)で所有されていたため沖縄戦の被害を免れ、戦後に里帰りできたのです」(平川さん)
絵も馬も時代を映し出すかがみである。沖縄戦で焼き払われた絵画同様、県内飼育馬(約3万2000頭)も4頭に3頭が犠牲になった。戦後80年を経て、完全に忘れ去られた戦死馬。沖縄慰霊の日の6月23日、激戦地となった首里を歩いた。アコークローに細かく刻む蹄の音が聞こえたような気がした。仲田青毛の蹄音なのか、それとも…。
◆琉球名馬列伝 梅崎が沖縄の名馬を紹介するミニラジオ講座。FM沖縄で8月7日~10月30日の毎週木曜(午後3時10~15分)に放送予定。県外からはラジコのエリアフリープラン(月385円、初めての方は初月無料)で聴取できる。