2025.10.31

藤沢師と秋の天皇賞

今週末、天皇賞・秋(GⅠ)が行われる。
今でこそ、3歳馬が古馬の強豪たちに挑み、勝利を掴むことも珍しくなくなった東京競馬場の芝2000メートル戦。だが、かつてその道は、若駒にとって高く厚い壁であった。
1987年、このレースが3歳馬に再び門戸を開いてから、初めて3歳馬が勝利を挙げるまでには10年という歳月を要した。
さらに、2頭目の勝ち馬が現れるまでには、そこからまた6年。
長い間、若駒たちは“挑戦者”のままだった。
そんな時代に、常識へ「待った」をかけた男がいた。
藤沢和雄調教師(引退)である。
3歳で初めてこのレースを制したバブルガムフェロー、そして2頭目の覇者シンボリクリスエス。どちらも、藤沢調教師の手によって育て上げられた馬だった。
「2頭とも、前進気勢の強い馬でした。なので3000メートルの菊花賞は、どう考えても距離が長過ぎると思ったんです」
今でこそ、誰もがこの言葉に首を縦に振るだろう。しかし当時は、3歳馬が向かうべき道といえば菊花賞(GⅠ)というのが“既定路線”だった。
87年からの10年間で、天皇賞・秋に挑戦した3歳馬はわずか5頭しかいなかった。シンボリクリスエスが勝利した2002年までの16年間で見ても、出走した3歳馬はたったの11頭に過ぎない。そして、その11頭のうちの4頭を送り出したのが、他ならぬ藤沢調教師だったのだ。
「奇をてらってやっていたわけではありません。あくまでも、その馬にとって“合っている距離”を考えた結果、自然と導き出された答えでした」
その考え方の根底には、彼の原点があった。
日本の競馬界に入る前、イギリス・ニューマーケットで4年間、馬と共に生きた日々。その経験が“馬を見て路線を決める”という当たり前の哲学を彼の中に根づかせた。
「馬なり調教」や「集団調教」など、今では当たり前になった手法を日本に根付かせた伯楽は、2022年に定年を迎え、静かに調教師人生に幕を下ろした。そんな22年の天皇賞・秋の当日、JRAは“粋な計らい”を見せた。「レジェンドトレーナーカップ」という特別レースが組まれ、プレゼンターを務めたのは、藤沢元調教師本人だったのだ。
そして、そのレースを制したのはレッドモンレーヴ。定年前の藤沢調教師が育てた馬だったのだ。そんなレッドモンレーヴが、まるで、師への感謝を伝えるように、力強くゴールを駆け抜けたのである。
藤沢調教師が残した教えは、今も競馬の世界に息づいている。そして、今週末、再び天皇賞・秋のゲートが開く。藤沢和雄が拓いた“若き挑戦者の道”を、今後、どんな3歳馬が駆け上がっていくのだろうか。これからも3歳対古馬の名勝負が繰り広げられる事を願いたい。
(撮影・文=平松さとし)