2025.06.13
カジノドライヴ、ベルモントS挑戦

2008年の今頃、アメリカ競馬に果敢に挑んだ日本馬がいた。カジノドライヴ(美浦・藤沢和雄厩舎)だ。
その年2月、京都競馬場のダート1800メートル新馬戦でデビューすると、いきなり2着に2秒3という大差をつけて圧勝した。そして、勢いそのままにアメリカ遠征を決断。6月に行われるベルモントS(GⅠ)への挑戦を表明したのだった。キャリアはわずか1戦。それでもなお、アメリカ3冠の最終戦に臨む理由を、藤沢和雄調教師(当時)はこう語っていた。
「この馬は兄姉がいずれもベルモントSを勝っています。そんな血統の馬をオーナー(山本英俊氏)が購入した時点で、アメリカのファンは『3代続けてのクラシック制覇が見られなくなる』とがっかりしたそうです。だから、オーナーはアメリカのそんなファンのためにも、チャンスがあれば遠征しようと考えていたんです」
その言葉通り、兄ジャジルも姉ラグトゥリッチズも、ベルモントSの勝ち馬だった。きょうだい三連覇という夢を背負い、カジノドライヴは海を渡った。そして迎えた前哨戦のピーターパンS(GⅡ)では、見事にあっさりと勝利を収めた。日本調教馬がアメリカのダートのグレードレースを制したのは、これが史上初の快挙だった。
こうして意気揚々とベルモントSに挑むことになったカジノドライヴは、下馬評でも2番人気に推される勢いだった。
ちなみに、1番人気が確実視されていたのはビッグブラウン。ケンタッキーダービー(GⅠ)を勝ち、続くプリークネスS(GⅠ)も制して、アファームド以来30年ぶりの3冠馬誕生に挑んでいた。
しかし、そんなビッグブラウンにも暗雲が立ちこめていた。2冠達成直後に裂蹄を発症し、その後の調整は思うように進まなかった。馬場入りを取りやめる日が続き、順調さを欠いていると報じられていたのだった。
「これで日本馬にもチャンスが広がるか」
そんな声も聞こえる中、まさかのアクシデントがカジノドライヴを襲った。レース前日の朝、調教のため跨った調教助手が歩様の異変に気づいた。
「左後ろ脚のザ石で歩様が乱れました」
藤沢調教師は苦渋の表情でそう語った。
レース当日の朝、患部はかろうじて小康状態を保っていた。出走か、取り消しか。伯楽は難しい決断を迫られていた。そんな中、カジノドライヴは1度、馬場入りをした。しかし、その調教後の様子を見て、藤沢調教師は正式に出走取消を表明した。
「当日の朝、無理に馬場入りしなければレースに出られたのでは?とも言われました。ただ、半マイルの調教すらできない馬が、2400メートルのレースを走れるわけはない、という私なりの考えから馬場入りさせました」
ベルモントSを前にしての終戦。カジノドライヴによるきょうだい3連覇の夢は、この瞬間に潰えてしまった。
一方、爪に不安を抱えていたビッグブラウンは「3冠制覇が懸かっているのに戦わずして退く意思はない」(R・ダトローJr調教師)と出走に踏み切ったが、勝負どころから急失速。最後はブービーにも大きく離され、最下位でゴールラインを通過。公式記録には「競走中止」と記された。
話をカジノドライヴに戻そう。ベルモントSは断念したが、秋には再びアメリカに渡り、ブリーダーズC(GⅠ)クラシックを目指した。本番では12着に敗れたものの、前哨戦として出走した一般競走では勝利を収め、見事に復活を遂げた。また、翌年にはフェブラリーS(GⅠ)でも2着に健闘してみせたのだった。
「一勝より一生」
藤沢和雄調教師がアメリカでも貫いた信念。その姿勢があったからこそ、その後のカジノドライヴの活躍があったのは、火を見るよりも明らかだった。
(撮影・文=平松さとし)
※無料コンテンツにつきクラブには拘らない記事となっております